バカに進化した人類

脳神経外科医からリハビリテーション科医に転科して脳研究者を目指す医者のブログです。

なぜ日本と韓国は男女平等にならないのか

 昨日ハフィントン・ポストに、男女平等度を示す「ガラスの天井」指数、日本は......、という、興味深い記事が掲載されました。内容に関しては様々なところで主張されていることなので知識としては知っている人も多いと思います。

 この記事によるとOECD加盟国28カ国のなかで、日本は27位、韓国は28位です。内容の詳細についての議論は控えますが、日本や韓国では欧米と比較して男女平等がまだ浸透していないことは共通の認識として考えてもよいというのが僕の実感です。

 では、それは一体なぜなのでしょうか。 日本と韓国の男女不平等を考えるキーワードとして、「世間」「儒教文化」「家族主義」があげられます。ここにヒントがあるのではないでしょうか。

 

 実は昨日、斎藤環氏の母は娘の人生を支配する―なぜ「母殺し」は難しいのか (NHKブックス)を読んでいました。斎藤氏はひきこもりが専門の精神科医です。ちなみに、本書の趣旨は、母と娘の複雑な関係についての論考であり非常に興味深いものですので、興味のある方は是非読んでみてください。

 この本のなかでジェンダー格差についてふれた個所があり、興味深いものでした。斎藤氏は、日本は権利上、および制度上はジェンダーによる格差はないが、事実上は明らかにジェンダーによる差があると指摘します。続けてこう述べています。

 

なんらの制度上の制約なしに、これほどはっきりとした性差が認められるからには、そこには世間的価値観が反映されているはずです。

 

 ここでいう「世間」とは、「世間様に顔向けできない」とかいう場合のような、規範として機能しうる価値観だと解釈できます。

 つまり、制度が整ったにもかかわらず、いまだに男女平等が実現していないのが現状であり、最大のジェンダー格差の発生源は世間的価値観だと、斎藤氏は言います。制度としての男女不平等を改善したから、もういいだろうという主張は男性目線のものであり、もはやそれで通るという状況ではなくなってしまったと思います。

 日本に「世間」という価値観があるのは言うまでもありませんが、斎藤氏の言葉を借りれば、

 

私の知る限り、世間システムが最も強力に機能しているのは日本と韓国ですが、両国に共通するのは最も近代化に成功した儒教文化圏、という点です。とりわけ儒教的な家族主義の支配は強力で、日本においてもこうした価値判断は十分に機能しています。

 

ということであり、世間という価値観は韓国にも存在するらしい。結局、「世間」という規範意識のあるところに男女不平等ありというわけです。

 ではなぜ、「世間」が男女不平等になるのか。長文ですが、再び斎藤氏の著書からの引用になります。

 

儒教文化の根底にある家族主義(「考」の概念など)は、明白に男尊女卑的側面を持っています。

 この価値規範と「世間」は、深いところでつながっています。それゆえ世間は、「家族主義」に逆らうものを徹底的におとしめ、はずかしめようとするでしょう。非婚の成人女性が、世間から「負け犬」(酒井順子氏のオリジナルとは異なった意味で)などと冷遇されがちなのは、このためもあるでしょう。

「女性の自立」がいけないのではありません。「家族を持たないこと」がいけないとみなされるのです。自立した女性として世間から受け入れられたければ、平均以上の社会的成功と同時に家庭では良妻賢母を務めるという、およそ人間業とは思えない超人的役割を引き受けなければなりません。

 

 

 家庭をかえりみないで仕事をする男性は場合によっては職場では評価されることもあるのに対して、女性の場合はほぼ皆無どころか評価が下がることさえあるように思います。これも家族主義的価値観における女性のあるべき姿といったイメージのせいでしょう。余談ですが、このような男尊女卑的価値観は、男性には女性以上の「社会的成功」へのプレッシャーとなって跳ね返ってくるのです。

 最近では女性が社会で評価されるようになっており好ましいことです。しかし、一方では家庭を持つことや家庭的であることまで、女性には要求されています。これは男性にとっても自分で自分の首を絞めるているようなものでしょう。女性以上の社会的立場や収入を得なければいけないという義務を感じ、女性が社会で活躍すればするほど、より高い水準を自分に要求してしまう。女性より社会的立場が低ければ世間体が悪いと。

 女性は仕事と家庭の両方を要求された場合、無理をして両方こなすか、もしくは世間体を気にして仕事を犠牲にして家庭を重視しがちになります。男性は、女性以上に活躍しなければいけないと無理をして仕事をするか、もしくは女性が活躍しないことを願う。

 

 制度とは異なって価値観はすぐには変えられません。儒教文化に関して否定的なことしか述べませんでしたが、良い面もあるわけであり、完全にはなくならないでしょう。

 なにより生まれ育った環境で自然に身に付いた価値観を完全に捨てることは容易ではないし、そこまではする必要もないと思います。よい所はどんどん取り入れればいい。ただ、その起源を知り、外から眺めなおしてみることで負の面を少しずつでも取り除いていくことが必要なのではないでしょうか。